戦争責任を肩代わりさせられたまま75年ー韓国人元BC級戦犯が語る不条理(2/3)戦犯裁判、そして死刑宣告へ

 帰国途中に引き戻され、死刑宣告を受ける

―敗戦後はどのように戦犯となったのでしょうか?

終戦はバンコクで迎えました。連合軍に逮捕され、バンコク郊外の刑務所に収容されました。その後シンガポールの「チャンギ―刑務所」へ送られることになりました。チャンギ―刑務所では、食事の量が少なく、ひどい飢えに悩まされましたよ。それに看守の連合軍兵士による虐待を受けました。その後簡単な取り調べを受けましたが、起訴されることはなく、1947(昭和22)年1月7日、日本へ送還されることになりました。

途中、石炭や水を積むために香港へ寄港しました。寄港中、イギリス軍将校に呼ばれ上陸し、自動車で約30分の刑務所に入れられてしまいました。そこで約3週間過ごしたのち、イギリス軍艦でチャンギ―刑務所へと戻されてしまいました。チャンギ―刑務所のコンクリート塀を再び見上げ、以前にも増した重圧感に押しつぶされそうでした。

チャンギ―刑務所(出典(a))


そしてその年の3月、刑務所内の小さな建物に設けられた仮設法廷で行われた簡単な裁判で、私は死刑(絞首刑)を宣告されてしまいました。まったく思いもよらないことでした。

―死刑になるのは思いもよらなかったとのことですが、捕虜監視員は直接捕虜に接する中である程度の暴力はあったのでしょうか?

ありましたが、それぞれちゃんと理由があります。仲間とけんかをしたとか、何か盗まれたとか。捕虜の方から、自分たちどうしでは収拾つかないからやってくれと願い出てきたこともあったくらいだから。わけもないのに、ビンタをとったとかそういうのはなかったですよ。

ビンタをするというのは、我々監視員は教育のひとつとして毎日殴られたんだけど、捕虜の習慣は違うものだからね、ビンタされるということに大変な屈辱感を感じるんですよ。我々は軍隊の厳しい軍事訓練を受けて何回も殴られても何にも思わなかったけど、捕虜たちはそれをすごく侮辱に感じました。

捕虜収容所でも、こっちは分駐所で本所というのがあるんだけど、本所に食糧を送ってくれとか医薬品を送ってくれとか言っても、なかなか送ってくれないんですよ。我々がペニシリンをもらいにいくと、この前やったのにもうもらいに来たのかと言われてしまいます。本所では捕虜が一人二人死んでも、なぜ死んだのかということについて無関心でした。そういうような状況で捕虜は死んでいったんですから、捕虜たちが収容所を憎む気持ちはよく分かるんですよ。私たち監視員に何か権限があるように考えられていたのかもしれませんが、何も権限がなかったんですよ。食料の権限、医薬品の権限、労務に明日何名出してくれということについても。

食いものは食えない、病気であっても医療は受けられない。そういった中で大勢の者が死んでいきました。それが事実ですね。そういったことで憎まれたんです。


一方的に進められた戦犯裁判

―戦犯裁判というのはどういう形で行われるのでしょうか?

連合国側が裁判をするわけです。連合国側の裁判長だったり検察だったり、全部連合国側ですよ。だからこちらは受け身ですね。具体的にどういったことになっているかよく分からなかったけど、一応取り調べは受けましたよ。裁判は裁判長から全部、向こうの一方的な進行で進みますからね。まあ結局書類だけの裁判ですよ。

―裁判官と直接対面したことはないのでしょうか?

あったことはあったけど、こちらはイエスかノーかだけで、あとは何もないですね。告訴されると特別に取り調べを受ける人たちの集まりがあって、そこに監禁されるんですよ。それで裁判に行く。あの時は裁判なんかどうでもよくて、お腹いっぱい食わしてくれたらそれでいいんだという気持ちでした。

―裁判なんかどうでもいいんだというのはどうしてですか?

裁判をしてもこちらの言うことは聞かないんだから、裁判はどうでもいい。明日死んでもいいからお腹いっぱい食わしてくれればいいと、そういった気持ちになりました。


死刑囚が収監される「Pホール」で

―Pホールにいらっしゃったときのお気持ちを伺いたいんですけれども、毎日どういうことをお考えになっていましたか。

Pホールにいて死刑になった仲間たちがいます。ビンタのひとつかふたつ殴ったのはあったかもしれないけど、だけどそれ以上のことは何もやっていないですよ。それを死刑にしたっていうことでね、どうしても私は死んだ仲間たちの無念な想いを少しくらい晴らしてやらないといけないという気持ちです。

朝鮮人軍属の林永俊(イムヨンジョン)という人が死刑執行される時のこと。私に最後に会ったときにね、「広村さん、減刑になってくださることを祈ります。刑務所をもし出れたら、林という人間はそんなに悪い男じゃないことを知らせてください」。と言っていきました。私は死ぬ身であるから、握手して何も言えないで別れました。

チャンギ―刑務所には十坪くらいの中庭があるんですよ。昼間はそこへみんな出て行って碁を打ったりしてるんだけど、死刑執行のある土日の前日にインドの大尉がね、執行命令を持ってくるんですよ。翌日誰々執行すということで、名前を呼び出されるんですね。そうすると初めから殺されるのは承知ではあったけど、やっぱり中の雰囲気がシーンとなっちゃいます。他のホールの人たちも、みんな誰々が殺されるんだということは知っているんですよ。執行は朝だったんですが、だいたい朝8時か9時になれば他のホールからも(お別れの歌として)君が代が歌われてくるのが聞こえました。

Pホール(死刑囚房)(阿部宏さん画)(出典(a))



誰のために何のために死んでいくのか。それが分からない。

―Pホールに入っていた時は、生まれ育った朝鮮半島のことは思い出しましたか?

日本人の場合は、戦争のよしあしは別として、自分の国のために死んでいくんだと考えることができて、諦めることもできると思います。でも韓国人の場合にはそれがないんですよ。日本の戦争に引っ張られて行って、いくら強制徴用だと言っても結果的には日本の戦争に協力して、戦犯として死んでいくんだと。そういった悔いというものがあるし、それを受けた親兄弟というものはどういった気持ちだろうと。誰のために何のために死んでいくのか。それが韓国人には分からないのです。Pホールに入って一番気になったのはそういうことです。


突然の減刑、東京の「スガモ・プリズン」へ

―死刑が減刑されたときは、ある日突然減刑になったということが伝えられたのでしょうか。

そうです。だからなんで死刑から減刑されたのかということが分からなかった。それは日本に帰って(補償)裁判をするまで分からなかったんだけど、裁判の過程で、私と毎晩「明日何名捕虜が足りない」などと言い争っていたダンロップ中佐が証言しなかったということが分かってきました。ヒントクの捕虜収容所で捕虜側の代表だったダンロップ中佐が、とうとう私の非を証明しなかったということのようなんですね。それで私は減刑になったんじゃないかと。

―減刑が決まり日本へ送還された後は、スガモ・プリズンに収監されたんですね。

私は1951(昭和26)年8月27日にスガモ・プリズンに入りました。翌年4月に平和条約が発効した後は大分管理がゆるやかになりました。家に行った連中もいたし、巣鴨にいながらバイトに行く連中もいました。

平和条約の発効で私たち植民地出身者は「日本国民」ではなくなります。平和条約11条に「日本国は…日本国民にこれらの法廷(連合国の戦犯裁判)が課した刑を執行する」とあることから、釈放されると期待していました。しかし、裁判当時は日本国籍だったということで、日本政府は私たちの釈放を拒否しました。


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画像出典:
(a) [図録]韓国・朝鮮人BC級戦犯者問題(発行:韓国・朝鮮人元BC級戦犯者「同進会」、2014年4月26日)