太平洋戦争当時、日本の統治下にあった朝鮮半島の人々は、日本の軍事行動に協力を求められました。しかし、戦後の対応は日本人と区別され、不条理と言わざるを得ない境遇に置かれてきました。今回、94歳となる李鶴来(イ・ハンネ)さんにお話を伺いました。
(インタビュー:2019年11月15日)
李鶴来(イ・ハンネ)さん
1925(大正14)年2月韓国全羅南道宝城郡生まれ。戦時中日本の軍属として「泰緬鉄道」建設に駆り出された連合軍捕虜の監視にあたる。敗戦後、監視員当時の捕虜への虐待等を問われ、戦犯裁判にて死刑宣告されるが、その後減刑され、釈放される。
日本統治下での幼少期
―李さんのお生まれについて聞かせてください。
私の家は農家でした。きょうだいは弟と妹がいました。私が生まれる15年前(1910年)に、日本による韓国併合が行われました。併呑(へいどん)という方がふさわしく、日本風の名前を強制する「創氏改名」によって、私の家は「廣村(広村)」(ひろむら)と名乗ることになりました。これは一族の発祥の地である「廣州(広州)」を忘れないようにとのことからです。
当時朝鮮で日本人は大いばりで、父が働く工事現場に母と一緒に弁当を届けに行った時、日本人の現場監督がこちらに向かって立小便をしたりしました。子どもながらに非常識な侮辱に腹が立ったのを覚えています。
日本軍の捕虜監視員へ
―戦争にはどのような経緯で巻き込まれたのでしょうか?
太平洋戦争開戦から6か月が経った1942(昭和17)年5月、ちょうど前の仕事を退職したタイミングで、面事務所(朝鮮の村役場)に南方の捕虜監視員の仕事が来ており、面事務所から試験を受けるように言われました。
日本軍は開戦当初、東南アジアで大勢の連合軍捕虜(俘虜)を獲得しましたが、その対応に苦慮し、朝鮮全土から約3,000名の捕虜監視員を募集したのです。郡・面ごとに人数割り当てが来ており、建前上は自発的な応募であったものの、実質的に強制徴用といえたと思います。
連合軍捕虜監視員募集に関する新聞報道。見出しの「半島青年」は朝鮮人青年のこと。 (京城日報 1942年5月23日)(出典(a)) |
試験に合格後、釜山で2カ月軍事訓練を受け、8月19日に釜山(プサン)から船で出発し、タイの捕虜収容所へ送られました。日本軍がビルマ(現ミャンマー)での作戦のための補給路として「泰緬鉄道」(たいめんてつどう=泰(タイ)と緬(ビルマ)を結ぶ鉄道)を建設することになり、労働力として大勢の捕虜が必要になったのです。捕虜収容所はタイ側とビルマ側にあり、私はタイ側の収容所の監視員となりました。
捕虜監視員たち。一番左が李鶴来さん。(出典(a)) |
―捕虜の様子はどうでしたか?
9月9日頃、私が初めて目にした連合国捕虜は千数百名もいたように思えました。つかまって間もないので体格もよく、私たち監視員が見上げるような大きさです。大勢の欧米人の捕虜には恐怖感すら覚えました。
―捕虜監視員の仕事とはどのようなものだったのでしょうか?
最初の頃の仕事としては、宿舎の設営がありました。一棟に50人くらい入る宿舎で、ニッパヤシの葉で屋根をふき、竹で床を張った簡単なものを作りました。また、警備も主な仕事の一つでした。入口の衛兵所や所内の歩哨勤務です。歩哨は所内を巡回して捕虜の動静を確認し、逃亡を防ぐのが仕事です。
バンポンで捕虜監視員の宿舎を建てている様子(出典(a)) |
「泰緬鉄道」建設
―そうして鉄道建設に携わっていったんですね。
はい。泰緬鉄道建設に従事する日本軍の「鉄道隊」が、捕虜と現地の労務者を使いながら、路盤構築・レール敷設の工事を進めます。捕虜収容所側は捕虜を管理し、鉄道隊の要求する作業人員を引き渡すことになっていました。
タイ側の起点の「ノンブラドッグ」から161㎞地点の「ヒントク」という現場で捕虜の監視を行いました。朝鮮人の私が、作戦や戦況を知る機会はなく、とにかく目の前の事態に対応することと、上官の命令が絶対であった日本軍の中で何とか立ち回ることに精一杯。任務に忠実であろうと懸命でした。
泰緬鉄道のルート (作者:W.wolny をhistory for peaceが追記) |
鉄道建設が進むにつれ、タイの奥地へと私が捕虜監視員を行った収容所も何か所か移動してきました。1943(昭和18)年2月には、捕虜500人を連れて朝鮮人軍属6名と共に、泰緬鉄道起点から161㎞地点のヒントクへ移動しました。ジャングルの真っ只中です。ヒントクは泰緬鉄道の中でも最難関の場所とされ、捕虜たちは大変過酷な労働を強いられました。泰緬鉄道が完成するこの年の10月まで、ヒントクで捕虜の監視を行いました。
ヒントク分駐所 宿舎等配置図(李鶴来さん画)(出典(a)) |
最初の三カ月は私が事実上の責任者で、分遣所との業務連絡や命令の伝達、作業割り当て表に基づく人員の配置、食糧の支給手続きなどの仕事がありました。作業現場には1回ほどしか行ったことがありません。捕虜が鉄道隊で殴られて死んだと言われても、どういうことがあったか分からないんです。監視員は6人だけで、夜は交代で収容所の監視、昼は現場に2名ほど送り監視しました。
捕虜への体罰と過酷な労働環境
―捕虜たちに対する体罰などはあったのでしょうか?
捕虜たちが規則違反をすると、2~3回ビンタ(平手打ち)をして反省をさせました。日本軍では教育の方法として罪悪視されていなかったのでそうしたのですが、捕虜にとっては大変な恥辱だったことを当時の私は知りませんでした。
ヒントクでの捕虜側の代表はオーストラリア軍捕虜のダンロップという中佐で、軍医でした。私は作業人員を確保するため、ダンロップ中佐に協力を要請する立場でしたが、彼は仲間をかばおうとし、言い合いをすることもありました。裁判資料には「ヒロムラは終始ダンロップと口論していた」と記されていたそうです。
―建設現場はどのような環境だったのでしょうか?
捕虜たちが鉄道建設に駆り出されていたジャングルは、タイでも有名な病原菌の巣窟でした。マラリア、アメーバ赤痢(せきり)、コレラなどの伝染病に加え、熱帯性潰瘍(かいよう)という怖い病気もありました。
5月からの雨季には連日激しい雨が降り続き、道路は泥沼のようになりトラック輸送などできません。川の水かさが増して船で食糧を運ぶこともできなくなってくると、栄養失調になった捕虜が死んでいきました。
彼らはよく下痢をし、労働で疲れ果てていました。赤痢にかかっている者は多かったですが、薬なし、休養もなし、でした。今思うと本当にかわいそうなことをしたと思いますが、当時の日本軍は捕虜を人間的に扱うことはなく、捕虜は無視された存在でした。ジュネーブ条約に捕虜の人道的取り扱いの規定があることはまったく教えられませんでした。
タイの捕虜収容所のオーストラリア人とオランダ人。脚気(かっけ)に苦しんでいる。 (出典(b)) |
捕虜の宿舎は雨漏りがし、服は捕らえられた際に彼らが持っているものだけだったので、後半期にようやく少し支給した程度でした。それも現地で押収したものです。ふんどしだけという捕虜もいました。捕虜はよく「靴がない」と苦情を言っていましたが、ごつごつした岩肌での作業ですし、熱帯性潰瘍などで皮膚がただれているところに傷ができるのですから、靴のあるなしは大変なことだったのです。
鉄道建設はインパール作戦のために1943(昭和18)年10月までに完成させよと命じられていました。大岩石地帯や大きな河川に架ける橋もあり、普通ならば6~7年かかる工事だったそうですが、それをおよそ1年3カ月、つまり5分の1程度の期間でやれという命令でした。さらに、途中で完成を2カ月早めろという命令まで出ていたそうです。
難所の工事もツルハシ、ノミ、シャベルなどの道具を中心にした人海戦術です。鉄道隊からは毎日作業人員の割り当て表が届きますが、病人が続出している収容所側はそれだけの人数を揃えることはできません。病人でも症状の軽そうな者を選んで作業に出さざるを得ませんでした。そして泰緬鉄道は、捕虜と現地労務者合計で4万5千人といわれる犠牲を出し、ついに完成しました。
泰緬鉄道建設で使われていた道具(出典(b)) |
泰緬鉄道(出典(a)) |