東京大空襲が子どもに与えた影響-ある戦争孤児の体験(1)疎開から東京大空襲まで(動画1~3)

 太平洋戦争も終盤に差し掛かった1945(昭和20)年3月10日未明、東京の下町地区を襲った大空襲は、空襲に直接襲われた人々を業火で焼き尽くしたのみならず、残された多くの子どもたちを孤独な世界へと突き落としました。

ここでは、東京大空襲当時千葉に疎開し、戦争孤児となった星野光世さんのインタビューを通じ、子どもたちが戦中・戦後をどのように生きたのか見ていきます。


星野光世(ほしのみつよ)さん
1933年に東京で生まれ、11歳の時、東京大空襲で、両親と兄妹の四人を亡くされました。
以降、農業や事務の仕事をされ、2013年より戦争孤児の体験画を描き始め、今も語り部としてご活躍されています。


もくじ

1.疎開から東京大空襲まで(動画1~3)

2.孤児となった星野さん(動画4~7)

3.星野さんは当時と今の社会をどう見ているのか(動画8~11)


1.疎開から東京大空襲まで(動画1~3)

(1)戦況が悪化するにつれて暮らしはどう変わったのか

星野光世さんは1933年、現在の東京都墨田区で生まれました。41年に太平洋戦争に突入してから終戦まで、戦況は次第に悪化していきました。幼なかった星野さんは、その変化に気づいていたのでしょうか。




(2)疎開中に最も辛かったことは?

1944年、徐々に戦況が悪化し、空襲を避けるため、当時小学生5年生の星野光世さんは千葉に集団疎開に行きました。どのような心境で毎日を過ごしていたのでしょうか。




学童疎開(がくどうそかい)とは

太平洋戦争時に行われた「疎開」(そかい)とは、戦火を避けるために人や施設を地方に移住・移動させることです。特に空襲の被害に遭いやすい都市部の子どもを地方に移住させる「学童疎開」が行われました。最初は親戚を頼って自分で疎開する「縁故(えんこ)疎開」が推奨されましたが、1944年になると本土空襲の可能性が明白になっていったため、国民学校(現在の小学校)3年生~6年生を学校単位で強制的に疎開させる「集団疎開」が行われるようになりました。終戦時、45万人の児童が疎開したと言われています。


(3)千葉の疎開先での3月10日の様子

1944年、徐々に戦況が悪化し、空襲を避けるため、当時小学5年生の星野光世さんは千葉へ集団疎開に行きました。3月10日の東京大空襲の日、遠い千葉ではどのようなことが起こっていたのでしょうか。




【解説】東京大空襲の民間人被害

太平洋戦争も終盤にさしかかった1945(昭和20)年3月10日、ちょうど日付が変わった頃の深夜の東京・下町(現在の墨田区、江東区、台東区のあたり)をアメリカ軍の当時の最新鋭爆撃機B-29の大編隊が襲いました。

たった2時間の空襲で約10万人もの人が亡くなりました。今の中学校にして約300校分の全生徒と同じだけの人が亡くなったことになります。さらに死者の10倍の100万人以上が何らかの被害を受け、26万戸以上の家が焼けて失われました。東京スカイツリー、両国国技館、浅草の浅草寺など、今は観光名所としてにぎわうあの一帯は、文字どおり廃墟と化し、すべてが焼き尽くされてしまいました。
※中学校1校あたりの生徒総数全国平均は336名(2005年)

4月の空襲後の東京。あたり一面が廃墟と化し、いたるところで煙がくすぶっている。


〇地獄と化した東京

空襲の標的となった下町地区は、隅田川や荒川といった河川に加え、無数の運河が走る地域です。そのため、猛烈な熱から逃れようとして、また逃げ場を失って、多くの人が水の中へ飛び込んでいきました。しかし、前日からの異常寒波の影響で川は氷が張るほど冷たく、防火用の厚い服装は水中では身動きを封じました。顔を出しても熱で頭巾(ずきん)や髪の毛が燃え出したり、燃焼によって発生する一酸化炭素で中毒を起こすなど、凍死、窒息死、焼死、中毒死、あらゆる原因で人々は息絶えていきました。

空襲は約2時間後に終わり、午前2時37分、空襲警報は解除されました。しかし、火の勢いはとどまるところを知らず、最終的に鎮火したのは午前8時過ぎでした。一夜明けた東京の下町は、文字通り廃墟と化していました。いたるところに散乱する焼死体は学校等に山積みされましたが、ほとんど原型をとどめていないものも多く、鉄カブト(防空用ヘルメット)、金ボタン、財布の金属部分などで死者数を判定せざるを得ませんでした。どこの誰だか分らぬまま、そのような遺留品を集め、死者数をカウントしていきます。火葬場も焼けてしまったため、非常措置ととして、都内67か所の公園、寺院、空き地などに仮埋葬されました。5日後の15日までに、仮埋葬された遺体は7万2439体とされます。

詳細はこちらのサイトをご覧ください 👉  東京大空襲(2)-2時間で10万人の市民を焼き殺した焼夷弾の大量投下

東京大空襲はなぜこれほどの被害を生んでしまったのでしょうか?

〇アメリカ軍の戦術の変化

当初アメリカ軍は軍需工場など、日本の戦力を低下させるために必要な軍事目標に絞って爆撃していましたが、目標にあまり爆弾が当たらず思ったような成果が出ませんでした。そのため、特定の目標を爆撃するのではなく、都市全体を焼き尽くす方針に転換しました。

そのために用いられたのが、焼夷弾(しょういだん)と呼ばれる燃焼性の高い爆弾です。これを大量に上空からばらまくことで、木造家屋が中心の日本の街は簡単に焼失するようになりました。

東京に投下された焼夷弾。よく燃える油脂が詰まった細い管が38本束になり投下され、空中でバラバラになって落下する。(撮影場所:東京大空襲・戦災資料センター)

同時に、アメリカ軍は当時最新鋭の「B‐29」爆撃機を日本から奪還した中部太平洋のマリアナ諸島に大量に配備。そこから日本本土へ爆撃を行うようになりました。B-29は原子爆弾を開発した「マンハッタン計画」よりも多くの予算をつぎ込んで開発された高性能爆撃機で、日本軍機が行動しにくい高高度(1万メートル以上)を高速で飛び、かつ日本軍爆撃機の約10倍(9t)の爆弾を搭載することができました。

〇日本軍の弱体化

1944年6月、日本は防衛の要としていた中部太平洋のマリアナ諸島(サイパン島、グアム島、テニアン島など)をアメリカ軍に奪われました。また空母機動部隊(戦闘機や小型爆撃機を数十機搭載した航空母艦=空母を中心とした艦船の部隊)も大敗し、強大なアメリカ軍に抵抗できる力をほぼ失いました。

マリアナ諸島から飛び立ったB-29は、無着陸で日本本土までの距離を往復できます。日本は本土の防空体制も十分に整わないまま、1944年秋より連日のようにB-29を始めとするアメリカ軍機の空襲を受けるようになりました。

一度に大量の爆弾を投下するB-29

〇空襲による火災の消火を命じた「防空法」

戦前・戦時中、空襲の際、主に市民が行う取り組みを決めた「防空法」という法律がありました。その中に、空襲の際逃げてはダメで、消火に努めなければならない、という決まりがありました(応急消火義務)。そのため、東京大空襲の際も消火に努めていたために逃げ遅れ、犠牲になった人が大勢いました。

▼アメリカ軍が東京の下町地区を狙った理由

なぜアメリカ軍は、住宅の密集する東京の下町地域を無差別爆撃のターゲットにしたのでしょうか。アメリカ軍の公式資料では、下町では家庭が軍需産業を下支えする小規模工場の役割を果たしているため、民家を空襲することは日本軍の力を削ぐことになる、という趣旨の事が書いてあります。しかし、3月10日は下町から近くの東京湾沿岸にある造船所などは空襲を受けませんでした。確実な根拠はないものの、アメリカ軍の本当の目的は、庶民を大量に殺戮し、戦意を削ぐことが目的であったと主張する論者も少なくありません。


次は👉 2.孤児となった星野さん(動画4~7)

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