東京大空襲が子どもに与えた影響-ある戦争孤児の体験(3)星野さんは当時と今の社会をどう見ているのか(動画8~11)

 3.星野さんは当時と今の社会をどう見ているのか(動画8~11)

(8)軍国主義や社会統制をどう思ったか

学童疎開によって親元を離れ、空襲によって両親を亡くした星野光世さんは、当時の社会をどのように見ていたのでしょうか。




(9)補償がないことをどう思うか

3月10日の大空襲により、星野光世さんは両親と兄妹を失い孤児となりました。甚大な被害をもたらした東京大空襲ですが、空襲被害者や戦争孤児へ、国からの補償はありません。




戦争で傷ついた民間人や戦争孤児に対し、国はどう向き合ったのか【民間人戦争被害者・戦争孤児の補償について】

太平洋戦争では、沖縄の地上戦や度重なる本土空襲、そして広島・長崎への原子爆弾などによって、軍人だけではなく多くの日本人民間人も命を失い、傷を負い、家や財産を失いました。

全国の都市を襲った空襲では、50万人以上の人々が犠牲になりました(原爆犠牲者数を除く)。軍人や軍属(ぐんぞく)に対しては、1952年に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」という法律が作られ、手厚い補償(ほしょう=財産や健康上の損失をお金でつぐなうこと)がなされました。補償の支給総額は2016年時点で累計60兆円にのぼります。
※軍属…軍隊に属する人のうち、戦闘に従事する人を軍人、それ以外を軍属と呼んだ。

一方で、民間人の空襲犠牲者の遺族や、傷を負った人々への補償はありませんでした。また、戦争孤児へも補償はありませんでした。これに対し、同じく第二次世界大戦に参加したドイツ・イタリアを含む欧米諸国は、軍人と民間人を区別することなく補償を行ってきました。しかし、日本の裁判所は「先の大戦では国民は等しく何らかの被害を被ったのだから、国民はその被害を受忍(じゅにん=耐え忍んで我慢すること)しなければならない」という、いわゆる「受忍論」(じゅにんろん)を展開し、空襲被害者等への補償を認めてきませんでした。

詳細はこちらのサイトをご覧ください 👉 【概要】旧軍人・軍属、民間人被災者の戦後補償-放置される民間人


(10)どうして戦争体験を残そうと思ったか

終戦から56年後、星野光世さんが68歳の時、自分の体験を後世に残して行くとご決断されました。2013年には孤児体験画を描き始め、現在も語り部としてご活躍されています。


(11)アメリカを恨んでいるか

3月10日のアメリカ軍による空襲で、両親とを失い孤児となった星野光世さんは、アメリカをどのように思っているのでしょうか。


これで星野さんへのインタビューは終わりです。

計り知れないほど深い傷を負った戦争孤児の方々。戦争が終わって長い年月が経ち、ようやく口を開くことのできる現実に、私たちができることを今後も考えていきたいと思います。


インタビュートップへ戻る 👉 1.疎開から東京大空襲まで(動画1~3)

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