名のない遺影〜南方に散った親族を探す旅〜後編

打川菊治さん、與市さん兄弟

太平洋戦争で戦死した二人の大伯父(打川菊治さん、與市さん)の軍歴証明書を取り寄せた工藤真利江さん(秋田県在住)。

菊治さんの記録は詳細だった。

1942(昭和17)年2月に現役兵として陸軍歩兵第117連隊の補充隊に入営し、その後、第36師団の第223連隊員として秋田を出発。門司港出帆、釜山港上陸、北支国境を通過後、第一機関銃中隊に配属。南方転進のため、翌年6月に山西省を出発し、第一歩兵砲中隊へ編入後、江蘇省を経て呉淞港出帆。

西部ニューギニア・サルミに上陸し、1944(昭和19)年6月28日、サルミ付近においてマラリア熱帯熱のため死亡(最終の階級は上等兵)


菊治さんの軍歴証明書

太平洋戦争末期、第223連隊が送られたニューギニア・サルミ地区は1944(昭和19)年5月17日の米軍の上陸と共に激戦地となった。しかし、陸、空、制海権を連合国側に奪われた赤道直下のニューギニアでは物資の補給もままらなず、武器弾薬はもちろん、食料や水、薬も不足し、日本軍は戦闘による死者に加え、飢えや病による大量の戦病死者を出すこととなる。菊治さんもその一人だったのだろう。


ココナッツ農園を前進するアメリカ軍

さらに、靖国神社の祭神照会をしたところ、菊治さんはサルミの野戦病院に収容され、そこで亡くなったことが判明した。


「マラリア熱帯熱のため、と病名まで記録が残っているとは思いませんでした。死亡率の高い感染症にも関わらず、病院に収容していただけたことは驚きましたし、ありがたいと思いました」と工藤さんは感慨深げに話す。


菊治さんのさらなる情報を求め、工藤さんは、長年、ニューギニアの遺骨収集を行っている太平洋戦史館(岩手県)も訪問した。

現地で回収された日本軍兵士の遺品を目にした工藤さんは「薬液が入ったままのガラスのアンプルに驚きました。そして、日本兵の遺骨は道路の下に踏み固められたままとの事実(館長の証言による)に胸が痛みました」と語った。


残念ながら、與市さんについては戦死時の情報しか記録が残されていなかった。

歩兵第17連隊員として1945(昭和20)年7月10日、フィリピン・ルソン島・マニラ東方40kmの地点で戦死。最終階級は陸軍伍長となっている。

戸籍謄本やその他の資料(ツバサ広業出版の秋田県大曲市・仙北郡戦歿者芳名録 : 満洲事変・支那事変・ノモンハン事件・大東亜戦争など)からは、第三大隊・第二中隊に所属していたことが伺える程度である。


與市さんの軍歴証明書

工藤さんは「歩兵第17連隊」「ルソン島」というキーワードをもとに書籍を探し求め、秋田歩兵十七聯隊比島戦史(歩兵第十七聯隊比島会戦史編纂委員会)、南部呂宋戦記(佐藤康平)、南部呂宋戦の回想(高橋敬三)、歩兵第十七聯隊―秋田県の戦友1 写真集(ツバサ広業出版)、兵士たちの戦争⑤(NHK「戦争証言プロジェクト」)、フィリピンに消えた「秋田の軍隊」(長沼宗次)などを読み込んだ。


ルソン島の戦いは日本兵約20万人が戦死、戦病死した壮絶な戦闘である。連合軍の爆撃、戦車戦、銃撃戦だけでなく、ゲリラ兵となった現地民との死闘が繰り広げられ、日本兵は食料確保と持久戦のため、戦力を「尚武」「振武」「建武」の3集団に分けた防衛態勢に入り、追い詰められていった。

武器、弾薬も尽きかけ、飢餓と病に苛まれながら、民間人とゲリラ兵の区別もつかぬ中、ジャングルを彷徨った兵士たちの証言は、今もなお、筆舌に尽くしがたい。


バレテ峠を匍匐前進する米軍歩兵

與市さんの最期がどのようなものであったのか、工藤さんが参考にした書籍以外から、筆者も独自に調査してみた。


戦史叢書 第60巻 捷号陸軍作戦(2)―ルソン決戦―、第八章 振武集団のその後の作戦に「必勝山部隊は今や伊藤大隊(歩十七のⅢ長伊藤昌徳大尉指揮の大井2、江島9、混成清水中隊)のみである。」との記述がある。おそらく、これが與市さんが最後に所属していた歩兵第17連隊・第3大隊・第2中隊を指すと思われる。

さらに、第3大隊の足取りを追うと、アジア歴史資料センターの各資料(同時期の資料が複数あるが、今回は附図(振武集団兵力部署要図、他)を参照した)の野口兵団の編成に「歩兵第十七聯隊ノ第三大隊」の記載を発見した。なお、歩兵第17連隊の多くが所属していた藤兵団の編成には「歩兵第十七聯隊(第三大隊欠)」とある。

※野口兵団、藤兵団はともに振武集団の隷下。


筆者の推論ではあるが、時系列で考えると、與市さんはルソン島に上陸した後、振武集団直属の集団歩兵である歩兵第17連隊第3大隊(長、伊藤昌徳大尉)の所属となり、戦線の混乱に合わせて野口兵団に編成され、戦死したのではないだろうか。

野口兵団はマニラから見て東方にいた部隊であり、與市さんの戦死場所とも近い。


戦史叢書によると、野口兵団は昭和20年5月頃から武号転進作戦(食料問題解決のための転進作戦)に移行しており、與市さんが亡くなったとされる7月10日はマーマラクリークからバクンバヤンへ移動している最中だったようである。この時点で既に大量の餓死者と飢えによる戦病死者が出ているため、與市さんもそのうちの一人だった可能性が高い。


菊治さんの所属した歩兵第223連隊と與市さんの所属した歩兵第17連隊は、いずれも秋田の郷土部隊である。雪国で生まれ育った青年が、どちらも、日本から遠く離れた熱帯の国で戦闘に参加し、なかば餓死するような形で亡くなったことを思うと、現代を生きる私たちの胸にも迫るものがある。


雪部隊戦没者慰霊碑(秋田市日吉八幡神社)

工藤さんは「まだまだ(足取りの調査など)やれることはたくさんある。今後、横須賀第一海兵団にいたと聞いている母方の祖父についても調べるつもりです。そして、いつか大伯父たちの亡くなった地を訪れたいと思います」と締めくくった。


名のない遺影〜南方に散った親族を探す旅〜前編


【保存版】親族の軍歴や足取りを調べる方法


※この記事はhistory for peaceのスタッフが工藤真利江さんへインタビューをし、掲載しています。画像等、無断での使用はご遠慮ください。









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