戦争の傷跡と共に暮らす家

 5月下旬、杉並区内のイベント『すいとんで戦時下の暮らしを偲ぶ古民家の集い』に参加した際、スタッフの女性が「73年前の戦争のときの焼夷弾が、柱に刺さったまま生活されているお宅がある」と仰るのを聞き、是非にとお願いして6月始め、『NPO法人すぎなみムーサ』さまの仲介により取材が実現しました。


体験談・少年の戦争体験

小学1年生の11月の始め頃、警報を聞いて玄関先の防空壕に避難した。そろそろいいだろうと思って外に出た時、遥か上空に初めてB-29を目撃した。1機だけで南に向かって飛んでおり、遠目だったが大きいと思った。数分後にその機体よりも低い位置を1機の日本の軍用機が追いかけていくのが見えた。子ども心に「追い付きそうにないな」と思った。

屋内に爆弾の痕が付いたのはそれから間もなくのことだったと思う。やはり警報を聞いて家族と共に防空壕に避難した。祖父だけは「俺は逃げない!」と言って広間に残った。防空壕は庭に掘ってあり、完全に地下だった。壁は剥き出しだったが、天井には梁を通してベニヤを張ってあった。家族全員が入れる広さがあり、三畳くらいはあったと思う。防空壕へ逃げ込む度に祖母が念仏を唱えていたのを覚えている。近くの畑に二発落ちた。ドスン!ドスン!と、ものすごい音と共に振動を感じた。一発は深く落ちて、もう一発は浅いところで爆発したと聞いている。人に被害が出たとは聞かなかったが、怖かったので現場を見に行くようなことはしなかった。後から聞いた話だが、広間に残った祖父は着弾したときの振動で座っていた体が飛び跳ねるほどだったそうで、屋内まで破片が飛び込んできた途端広間を飛び出し、防空壕の入り口まで駆け込んできたそうだ。

その後はあちこちで空襲があり、その度に防空壕に逃げた記憶はあるが細かいことは覚えていない。

その頃の事で特に印象に残っているのは、ある日憲兵が三人訪れて、庭にある大きな欅の木の太さを測っていった。現在中瀬中学校の建っている場所は戦中は高射砲陣になっており、邪魔になる木を調べていたらしい。幸いこの木は切られずに済んだが、直線距離で100メートルほど南西側の家の欅は切られてしまった。その木は軍艦の甲板にされたとその家の者から聞いた。

小学2年の夏に戦争が終わった。

戦後の思い出は、配給の物資が紙製のドラム缶で来たことだ。リヤカーで2つ運んできた。家族が多かったからだと思う。紙でできているのに丈夫で、戦後70年以上経つのに当時のまま残っている。


柱に付いた疵はどのようなものなのか

『畑に二発落ちた』との事でしたので、杉並区の資料を調べてみると昭和19年11月24日にこの住宅の東側、中瀬という地区に『畑に二発』という記録が見つかりました。
この日は中島飛行機武蔵野工場が空襲を受け、大きな被害が出ています。
(※赤丸が着弾地点付近。青丸が取材地付近。)
(※『復刻版コンサイス東京都35区区分地図帖戦災消失区域表示』<1946年発行・1985年復刻>より)


しかし、この柱の疵は西から東にかけて貫かれていました。建物よりも西側から飛んできたということになります。
( ※赤丸箇所が疵の残っている場所 )

70年以上前の小学1年生の記憶です。
比較的被害は小さかったとは言え、幾度と無く警報が鳴り、空襲に襲われました。幾つかの体験が織り交ざって刻まれたとしても不思議ではありません。

東京大空襲・戦災資料センターの主任研究員・山辺昌彦氏と、杉並区郷土博物館分館学芸員の森泉海氏の元を訪ねました。


山辺昌彦氏のお話

傷痕の写真をご覧になり、「思っていたよりも小さいな」と仰いました。

> 傷痕の写真や空襲記録だけでは投下場所や爆発物の種類の特定は難しい
>> 焼夷弾であればもっと大きい疵が付く
>> 爆弾の破片というよりは、機銃掃射の痕のように見える
>> 機銃掃射であれば年明け2月24日、広範囲に大きな被害が出ているしそれ以外でも頻繁に飛来している


森泉海氏のお話

傷痕の写真をご覧になり、「やや上から下にかけて付いている」と仰いました。

> 柱の根元30センチくらいに付いたのであれば、吹き上がった爆弾の破片とは考えにくい
>> 機銃掃射の痕に見える
>> 機銃の痕であれば、単独で飛来したものについては証言が無ければ記録にも残らないため被災時の特定は難しい


継承・存続問題

今回取材させていただいた住宅は、江戸時代から続く区内でも有名な古民家でした。
そのため、取り壊されたり建て替えられたりする事無く70年以上戦争の傷痕を残し続けることができたのです。

しかし、その古民家も現在メンテナンスなどの問題から継承の危機にあるとの事です。

ここでわたしが注目したのは、この古民家を教えてくださったすぎなみムーサ・スタッフの女性の「柱に焼夷弾が刺さったまま」という発言です。
その日は戦争体験者の講和もあり、会場には焼夷弾の実物も展示されていたため、その女性が爆弾と焼夷弾の差異を考慮せずに発言しているとは思わずに、柱にざっくり六角柱の鉄筒が刺さっている姿を想像し、その方に「不発だったのでしょうか」とか「中身は残っているのでしょうか」と尋ね、その女性は「不発だったと思う」「中身は残っていない」と回答してくださり、わたしのスキルの問題もありますが、その場ではお互い思い描いた場面に齟齬があることに気付けませんでした。

これはその方が意図して話を盛ったという事ではなく、戦争を意識することのほとんど無い日常の中、実物を目の当たりにした衝撃の現われなのだと思います。

戦災資料センター主任研究員の山辺氏は『葛飾区郷土と天文の博物館』収蔵の日本初空襲の際の機銃痕が額装されて残されている例を挙げられたうえで、可能な限り建物のまま残されることを願っていると仰っていらっしゃいました。

区内で最古であろうとも言われる歴史的な建物です。『NPO法人すぎなみムーサ』さまも古民家リノベーション・宿泊施設に転用などを視野に努力されていらっしゃいますが、杉並区指定の保護樹林でもあるお庭の大きな欅の木を含め、わたしも存続の道を探って行きたいと思います。

2018.06.27 zazou


後日、配給物資を運んだ紙製のドラム缶の写真をご覧になった東京都歴史教育者協議会会長の東海林次男先生より、この配給品はララ物資ではないだろうかとのご指摘がありました。

ララ物資については戦後の体験談や当時の給食事情などで耳にしたことはありましたが、詳しく調べたことが無かったので今後調べてみたいと思います。

2018.07.21 zazou


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日本が受けた恩-ララ物資を始めた人々


ララ物資のおかげです! 戦後日本人は食と栄養にどう取り組んできたか (朝日新聞デジタルSELECT)

■ 参考資料 ■

* 杉並区戦後70年事業 区民の戦争戦災証言記録集)
(杉並区役所にて400円で取り扱い中)

■ 情報募集 ■

戦争遺跡として、歴史的な古民家として、継承・存続の為に有力な情報をお持ちの方、どうかご一報ください。
* history for peace Mail:historyforpeace@gmail.com

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