東京大空襲から73年-ある体験者の方のお話し

3月10日、東京都慰霊堂参拝からの帰りがけ、両国駅構内の一角に小さなギャラリーがあるのに気がつきました。

両国駅の開設当時からの歴史を写真で伝えるその展示を眺めていると、後からやってきたご高齢の男性が写真に写っている機関車や風景を懐かしがりながら順々に当時の説明をしてくれました。

展示写真の説明が終戦直後、焼け野原の中に建つ国技館へと移ると、「これ何だかわかる?」と仰いましたので「国技館とキャプションが付いていますね。」「当時は現在とは線路を挟んだ反対側に建っていたんですよね。」と答えると、「ボクはあの日は錦糸町に居たんだよ」と仰いました。

「あの日」1945年の3月10日、錦糸町は大きな被害の出た地域のひとつです。
驚いて「お幾つだったのでしょう?」と尋ねると「9歳。」と仰いました。

「国民学校の3年生くらいでしょうか。。」と言うわたしの言葉に今度は男性の方が驚いて、「国民学校なんて言葉をよく知っているね。」と仰いました。

以下、その方の体験談です。



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被災時は9歳。両国駅と錦糸町駅の中間辺りに在住。
一度は千葉の柏に縁故疎開しましたが、土地の人に馴染めなかったのと食べ物が合わず錦糸町の実家に戻ったばかりだったということです。

「焼夷弾は9日の夕方から落とされた。それはもうボンボン落ちてきた。」
(実際は10日の深夜0時8分初弾投下ですが、『夕方だった』と記憶されている方はごくたまにですがいらっしゃいます。一応、「米軍の作戦報告書では0時8分と記載されていますが。」と言ってみましたが、「うん。でも実は夕方だったんだよ。」と仰いましたのでそれ以上の問答はしませんでした。個人的には深夜にも関わらず、そのくらい明るかったのだと解釈しています。当時武蔵境からこの日の様子を見ていた方からも「新聞が読めた」と仰るのを聞きました。)

「いつもよりずっと低いところを飛んでいて、パイロットの顔が見えた。」
(B-29は高度約1万メートルの上空を航行可能な航空機でしたが、この日は敢えて3〜2000メートルの低空飛行からの投下作戦でした。2km先の人の顔が認識できるか疑問ですが、この日米兵の顔を見たと仰る方は結構いらっしゃいます。実際、米軍側にとっても過密編隊での低空飛行は決死の作戦で、猛火による乱気流で機体はでこぼこ道を走るバスのように弾んだという話を聞いたことがあります。2000メートルよりも低い場所を飛ぶ機体もあったのかもしれません。)

家族は父母、姉(女学校2年生くらい)、ご自身、下の兄弟二人(1人は乳児)。
父と姉は火を消すために家に残り(『防空法』と言う、自宅に着いた火を消さずに逃げてはいけない決まりがありました。)、母たちと第三中学校(現在の両国高校)の講堂へ避難すると中は人でいっぱいで、その片隅には天幕が張られ、その時まさに誰かがお産の最中だったとのことです。

程なく講堂の中にも煙が入り、火が入り、家族を見失いながら外に逃れてグラウンドに出ましたが、地面は火が這っていたそうです。
下駄を履いていた筈がいつの間にか無くなっていて、火の上を裸足で逃げたので今でも足の裏は火傷の痕が残っていると、足元を指しながら仰いました。
季節の変わり目など、今でも痛むことがあるそうです。

グラウンドには兵隊が防空壕を掘っていて、招き入れてくれたので火が収まるまでそこに居たそうです。
(学校が軍に接収されていたのかと思い、防空壕の規模を尋ねたら「二人くらい」とのことでした。兵士が単独で学校に居るのも不思議なので、もしかしたら国防服姿を見間違えたか、非番で帰省中の兵士だったのでしょうか。。)

壕で猛火を避けながら目の前で人々が燃えていくのを見ていたそうです。
「子どもがね、転んで火が着くんだよ。あっと言う間(に火だるま)だよ。わかる?親はね、なんにも出来ないんだよ。わかる?助けようとして一緒に(火だるまに)なっちゃうんだよ。そんなのを見たの。わからないでしょ。そんな話をしてもね。。」

「火が収まってみたらね、もうわからないんだよ。男か女かわからないの。真っ黒。」「不思議だけど全然焼けていない(遺体)のもあった。」

講堂から逃げる際には家族とはばらばらになっていたそうですが、火災が収まって焼け残った学校に行くと母と下の兄弟二人とは再会できたとのことでした。

家に残った父と姉はその後火災の勢いから消火を諦めて家を出て、江東橋まで逃げたのだそうです。橋の欄干は金属供出で当時は木製に掛け換えられており、父と姉がたどり着いた頃には既に燃え尽きて欄干の無い状態だったと姉から聞いたと仰いました。
周囲の人々に押されたのと、熱くてたまらなかったのとで二人はほぼ同時に川へ落ちたそうです。
防火水槽に氷が張る程の寒い日で、姉は偶然流れて来た木材に掴まって助かりましたが、その時父親が沈んでいくのを見たとのことでした。
後日、周囲の人から錦糸公園で父の名の墓標を見つけたと言う話を聞いたとのことで姉が確認に行ったそうですが、男性ご自身は見には行かなかったとのことです。
(3月10日の遺体は数日の間に集められ、公園などに大きな穴を掘って仮埋葬されました。錦糸公園はその仮埋葬地のひとつです。遺体はその3年ほど後に掘り起こされて改めて火葬され、東京都慰霊堂に納められました。)

「国は何もしてくれなかった。パン一つくれなかった。」と仰るのでわたしが、「上野駅にたどり着いた人の話では、乾パンがもらえたと聞いたことがありますが。」と言いますと、「もう無かった。こんな時間に来ても無いよと言われてね。」「水は無いかと聞いたけど水も無いと言われた。」とのお話でした。

避難場所になっていた学校は人であふれ、居る場所が無いので家族揃って王子の親戚を頼ってお茶の水駅まで行ったそうです。
「お茶の水から王子まで電車が出てると聞いたから。」「そんな時はね、耳を澄ましていろんな事を聞くんだよ。大事なことかもしれないから。」「出てるとか出てないとかいろいろ言われたけど、出てるという話を信じて朝まで待ったら来たんだ。」と嬉しそうに仰いました。
(実際、10日は総武線は武蔵野方面からお茶の水まで、山手線も当日から動いていたと聞いています。そして、非常時に周囲の情報に注意を傾ける姿勢が重要であるというお話は、貴重な教訓だと思いました。)

電車は超満員で、男性は足の裏を大火傷していて歩けなかったため姉に背負われていたそうですが、そのような状態で満員電車に乗り込むわけにもいかず困っていたら、これから出征すると言う兵士に出会いその方が駅に掛け合ってくれたので特別に車掌用の席に座らせてもらえたとのことです。
その兵士は王子まで付き添ってくれ、更に王子の駅で病院を探して連れて行ってくれたとのことでした。
薬も医師も足りない中で、兵士に付き添われた事が幸いしたのかとても丁寧な処置を受けることができ、指がくっ付いたりせずに済んだと仰っていました。
兵士は名も告げずに出征先へ発っていったそうです。

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男性には一緒に逃げた家族の他に出征された兄が二人いらしたとのことで、上の兄はフィリピンで戦死されたそうです。
兵役年数そのものは恩給対象に足りないかもしれないと思いましたが、専門学校卒業後の入隊で最終階級は少尉、且つフィリピンは激戦地として年数が加算されたはずなので、「ご家族には恩給が出たのでは。」と聞くと、「新婚だったから(恩給は)嫁の方に行った。」「嫁はそのお金で店を開いたのでこっちには何も無かったよ。」と仰いました。

「戦死した兄の遺骨の箱に何が入ってたかわかる?」
と、仰るので、
「石か、空っぽでしょうか。。」
と、答えると、
「キャラメルだよ!!キャラメルが一粒入ってた。」
「!?初めて聞きました!!!」
(この時は驚いて『そのキャラメルは食べたのだろうか!?!?』『誰が!?!?』『もしや包み紙には菊の紋が!?!?』などとあれこれ想像してしまいましたが、もしかしたらご家族の誰かが小さな弟の為に入れたもので、本当は空っぽだったのかもしれません。そんなわけでそのキャラメルをどうしたのかは聞き漏らしました。)

二番目の兄は出征後近衛兵(陸軍内から選抜された天皇直属の師団)として千葉県に入営し、終戦間際に熊本へ配属されたとのことですが、終戦後はその熊本から徒歩(!!)で東京まで帰還されたそうです。
「徒歩ですか!?!?」「何日かかったんでしょう??」
と、尋ねると「さぁ。。。???」と、今まで考えたことも無いという感じのお返事でした。

「当時はやっぱり将来は兵隊さんになりたいと思っていらしたんですか?」
と、尋ねると一瞬遠い目をなさいました。
「もう、他に選択肢が無かった時代ですもんね。」とわたしが言うと、
「勉強なんかしなかったよ。」「毎日警報だから。」
「学校来てもね、授業なんか無いし警報鳴ると帰るの家に。」

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最後にわたしが、「今のお話、お孫さんやお子さん方へしますか?」と、尋ねると
「初めて話したよ。」「だって、言ってもわからないでしょ。」

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語り部の方を何人か知っていますが、どの方も体験を口にするまで何年もかかっています。一生口にすることなく旅立つ方がほとんどなのだと思います。
このご年配の男性も、非体験のわたしがどれだけ想像しても追いつくことなどできないほどの体験と、それに纏わる想いを抱えていらっしゃるのだと思いました。

実際その方は以前、ご近所で空襲のパネル展を開催している所へ通りかかり、「観て行ってください。」と声を掛けられたところを断ったそうです。
「絶対いやだ。」「充分知っている。」「二度と思い出したくない。」

その一方でわたしは、周囲の非体験者から両親の亡くなった後に「ちゃんと聞いておけばよかった。」と言う声をよく聞きます。

「その時はわかってもらえないかもしれません。でも、後で必ず『聞いておいてよかった』と思います。」
男性はわたしの言葉には答えずに、「戦争はだめ。戦争だけは絶対にだめ。」とだけ静かに強く仰り、わたしは都心方面へ、男性は錦糸町へと総武線のホームで別れました。

記事:zazou

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